楽しく生きる方法~憂鬱な毎日を終わりにするために

ここにもアメブロの方にも、基本的にはいい人生にするための方法しか書いていませんが、いくら有益な情報を知ろうとも、そもそも毎日が憂鬱なことばかりに感じられてはなかなか生かしきることはできません。

アグレッシブに自分の人生を生きるために、どうすれば毎日を楽しめるようになるのか、おもしろおかしく暮らせるのかについてお話します。

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生きてるだけで丸儲けとはよく言ったものだ

ちょっとスピリチュアル的な話から先にしますと。

実はこの世に生まれてくるというだけでもドえらい倍率を勝ち抜いてきている、というのが我々人間だったりします。

基本的にコンサル生さん以外に宇宙関連の話はしないのですが、少しだけお話しますと、全宇宙には無数の「魂」があり、それらは地球に生まれてくることを皆、熱望しています。

なんでかというと、地球は宇宙で言うところの遊園地みたいなもので、アトラクションが多いから。

という説明をするとなんだかなぁ、という気分になると思いますが。

皆さんもディ〇ニーランドでホーンテッ〇マンションに入るとか、富〇急ハイランドでFUJIYA〇Aに乗るとか、経験したことのある人も多いかと思います。

言うなれば、これらは、わざわざお金を払って怖いものや危険な乗り物を体験しているわけですが、我々の魂も宇宙の単位で言えばそういうことがあるわけです。

人の魂というのは、体験や経験を強く欲してこの世に生まれてきているのだ、ということです。

もちろん、これは信じなくていいですよ。

ただ、そういう見方もあるのだな、ということだけ知っておいてください。

単にものの見方というだけで大丈夫です。

つまり、宇宙の単位で言えばまさに「生きてるだけで丸儲け」な話なわけです。

地球に生まれることに落選した魂がやまほどいるわけですからね。

とかなんとか話しても、毎日つらいことばっかだ、全然おもしろくない、と思われる方も多いと思うからこの記事を書いているので、そんなキレイゴトなどいらんと思われましたら次へお進みください。

どうすれば毎日をおもしろおかしく生きることができるようになるのかをお話します。

「楽しいことがない」ということ自体が間違っている

まず、大前提からいくと。

基本的に「楽しいこと」などこの世にありません。

「えええええええ」となられると思いますが、それ単体で楽しいことは存在しません。

そうではなく「楽しいと感じられる自分」がいるだけです。

「おもしろいと思える自分」がいるだけです。

大多数の人が、楽しい何か、おもしろい何かを探したり、ないないと言ったりしますが、当然です、そんなものはないのです。

何かを楽しめる自分、何かをおもしろがれる自分、それがあるかどうかだけです。

ここをまずガッツリ意識してください。

この世に楽しいこともおもしろいこともない。

自分が楽しくするのだ、おもしろくするのだ、ということです。

毎日が楽しくない、おもしろくない、憂鬱なことばかりだ、と思われたら、ぜひ最初にこの言葉を思い出してください。

例を挙げましょう。

ただ咲いている花で楽しめるか?

そこに花が咲いていたとします。

別にキレイな花でもそこらに生えてる雑草の花でもいいのですが。

花が単体でそこにあったら、それをどう表現しますか。

「花が咲いている」

という言い方はすると思いますが、それを見てどうこう思うかは自分の話になりますね。

花の方が自ら「楽しい」とか「おもしろい」という形容詞はつけません。

タンポポであればただのタンポポですし、桜ならただの桜です。

生物学的にはそれ以上でもそれ以下でもないわけです。

なんらかの形容詞をつけるのは、我々見ている人間側になります。

一般論で言えば、花は「キレイ」とか「かわいい」と表現されることが多いです。

キレイな花だな、と感じることができたら、そのキレイだと感じたこと自体を「楽しむ」という言い方に変えることはできますね。

それ単体で、あるだけで楽しいものとかおもしろいものは存在しない。

ここまではご理解いただけるでしょうか?

タンポポで爆笑する方法

先ほどの方法で「楽しむ」と思えたのは「キレイだ」と感じることができたからなわけですが。

このキレイだ、の部分は個人の感性によりますよね。

キレイだと感じる人もいれば感じない人もいますし、もっと言ってしまえば醜いと思う人も、気持ち悪いと思う人もいるわけです。

つまり、どう感じるかに定型やルールはないわけです。

みんながキレイだというからと言って、自分もキレイだと思わなければいけないわけでは一切ありません。

好きに感じていいわけです。

では、変だとか、おかしい、などの感想を抱いてもいいわけですよね。

何もキレイとかかわいいなどのありきたりな感想しか言っちゃいけないわけじゃないですし。

キモいとか、ヤバいとかの感想でも別に構わないですよね。

ところで、タンポポは茎が筒状で真ん中が空洞になっています。

花が散った後はなぜか綿毛になって四方八方に散らばっていきます。

筒状の茎が伸びて、黄色の花が咲いて、綿毛になって、飛んでいくわけですよ。

なぜ筒状なのでしょう、 意味がわからないですよね。

我々が知らない、とんでもない機能がそこにあるのかもしれない。

皆さんの周りに、ストローみたいな形状で幼少期を過ごし、大人になったら真っ黄色の服を着て、老年期になったら綿毛になって散らばるような人がいらっしゃるでしょうか。

人間と植物とはいえ、同じ地球上に住む生物なのに、エラい違いですね。

遠い宇宙のどこかから見れば「地球上の生物」として同じカテゴリに見られるかもしれないのにですよ。

きっとタンポポから見たら、ニンゲンというものは、花も咲かず、綿毛にもならず、風に飛ばされることもなく、あーだこーだ悩み泣いたりわめいたりと随分必死でその場にとどまり続けて繁殖しようとしてるんだな、風に任せりゃ繁殖できんのに?みたいに見えるのではないか、と推測されるわけです。

いつか近い未来、宇宙人が地球にやってきた時、彼らが人間ではなく植物とだけ話せる能力を持っていたとしたら。

そして、タンポポのあの筒状の茎は実は、コミュニケーションツールの役割をしているのだとしたら。

そして宇宙人たちが、タンポポに向かって

「あのニンゲンというのはなんだ?」

と尋ねたとしたら。

きっとタンポポは言うわけです。

「なんか燃費の悪い生物。いろいろがんばってるっぽいけど自分で自分の首絞めるみたいなところ、あるよねー。こだわり強くてウザイよ?」

みたいなことを筒状の茎の部分を使って言うかもしれないですね。

とまぁ、タンポポと宇宙人の会話みたいなものをイメージするとフフフフフフ、と笑えてくるわけですが。

これは自分がよくやる「もしも〇〇だったらシリーズ」のひとつなのです。

実際、芸人さんなど、人を笑わせることを職業としている人の発想はこういった形のものが多かったりもします。

一般的にはこう言われている、こう思われている、という部分からあえて自ら外れて、別の発想を当てはめていく、というものですね。

もちろん、タンポポの例は極端に見えると思いますが、どうやったらおもしろくできるか、という視点を常に持って生きるというのは非常に重要なのです。

憂鬱な状況を笑いに変える

私が最初にこの視点を思いついたのは、十代の頃でした。

他の記事にも書いておりますが、結構な重病を患っていて、無菌室にいないと呼吸も人並みにできない時期が結構あったのですが。

あまりに苦しい、痛い、という状態が続いたので、正直、苦痛や痛みに飽きてしまいまして。

「超苦しい、ウケる。超痛い、ウケる」

という、感じた感覚の出口を悲しみや怒りではなく、笑いにしてみる、という実験をやっていたのです。

他から見ればさぞかし気持ちの悪い光景だったと思います。

ヒドく病状がよくないのに、本人は笑っているからです。

しかし、それは人から見たらどうだ、の部分であって、自分にとってはおもしろかったのでソレでいいのです。

大半の日々を楽しめていない人は、人から見たらどうだ、の部分に対して大きな意識を使っています。

人から見て変ではないか、人から見て悪く思われないか、人から見て非常識に見えないか。

モノゴトが自分にとって楽しいかおもしろいかよりも、そちらの方の優先順位がよくよく見ると高いわけです。

しかし、人からどう思われるかというのは厳密に言えば一生わかりません。

「きっとこうだろう、こう見られる可能性がある」

というのはわかりますが、本当にどう思っているかなんて誰にも一生わからないのです。

つまり、絶対にわからないことに対して一生懸命意識を使っていることになります。

これがどれだけムダなことかわかりますか。

人の気持ちは自分のものしか正確にはわかりません。

であれば、自分の気持ちの部分に最大限意識を使うべきですし、また、自分の機嫌は自分で取るのが大人のやることです。

どうすれば自分が楽しくおもしろくいられるか、どれくらい考えてどれくらい行動に移しているか、自己チェックしてみてください。

自分を笑わせる、自分を楽しませる、自分をおもしろがらせる、というところが実は生きている中で最も大事だということを人は忘れすぎています。

自分が笑えもしない楽しめもしないおもしろくもないのに、人に気を使ってばかりとか、人の顔色ばかりを窺うとか、人に悪く思われないようにがんばるとか、短い人生でやるにはあまりにもバカバカしい話です。

まず、自分を楽しませる、おもしろがらせる、笑わせる、ということに目いっぱいエネルギー使ってみましょう。

話はそこからです。

人のことなどその意味で言えば二の次三の次でいいのです。

あなたが楽しく笑っていたら、それが周囲や世界ににとって最も貢献になることなのです。

そこにぜひ、責任を感じてください。

「憂鬱な状況」をなぜ憂鬱だと感じるのか

言いたいことはわかるが、憂鬱なものは憂鬱だ。

おもしろくないものはおもしろくない。

そう思われることも百も承知です。

と、ここで気づいていただきたいことがあります。

「憂鬱なものは憂鬱だ」

「おもしろくないものはおもしろくない」

これはいわば「A=A」という関係性を持っています。

対象と感想や感覚が同じになっているということです。

これを専門的な雰囲気の言葉にすると「トートロジー」と言います。

トートロジーとは「何も語っていないこと」という意味で、言うなれば生産性のないことを指します。

人の習性や生態を紐解いていくとわかりますが、人というのは、生産性のないことを元来嫌う性質があります。

意味のないことに対して価値を感じない傾向がありますし、ムダなことを毛嫌いしますよね。

子供がただ服を汚すだけの遊びをしようとしたら叱る大人が多いように、無意味に見えること、ムダに見えることを人はいやがるものなのです。

この「A=A」で語られてしまうものはつまり、自らに嫌悪感を本能的に覚えさせる可能性が高いということです。

例えば。

「仕事=憂鬱=憂鬱だ」

このケースで言えば対象である仕事と憂鬱は概念上同じものとして語られている。

そして、それを感想として、更に憂鬱だ、と評しているわけですが。

この「感想として」の部分は自分の思うこと、感じることにあたるので、自分で適宜変更していいわけです。

先ほどの「花をキレイだと思う必要はない」と同じです。

日々を楽しくおもしろおかしくしようとしている人の思考回路は、この感想の部分を自力で変えようと普段からしているのです。

「憂鬱なものはおもしろい」

「おもしろくないものは笑える」

みたいな感じです。

先に感想の部分を決めてしまってから、どうおもしろくするか、どう笑えるように見るか、と考えるようなイメージだと思ってください。

順序が逆になっている、ということです。

よく「人はフィルターを通して現実を見る」みたいな表現をされますが、まさにこれです。

最初から、感想の部分が「おもしろい」とか「笑える」になるようなフィルターを通してものを見ているのです。

何度も言いますが、感想はどんなものを抱こうと構わないのです。

発想以上に自由を許されているものなどありません。

みんながキレイ、美しい、かわいい、と言っていても、自分だけ「ブッサイクだな」と思っていいわけです。

自由な感想を抱いていいので、結論の部分を、述語の部分を、自分であらかじめ「おもしろい」とか「笑える」とか「楽しい」とか「ウケる」にしていく習慣を強引につけてみてください。

そして、なぜおもしろいのか、なぜ笑えるのか、なぜ楽しいのか、の部分を自由に捏造していくのです。

ここに頭と思考力を使っていく感じです。

コレが本当に落とし込めて習慣化されると、日常は笑えるものしかなくなっていきます。

何を見ても何を聞いてもおもしろくなってくる。

あの髪型がおもしろい、あの靴下の柄がウケる、あのTシャツのロゴが笑える、とおもしろいものだらけになっていきます。

そして、最終的には何はなくとも笑える、何はなくとも楽しい、というのが当たり前になっていきます。

慣れていないと最初は戸惑うと思いますので、何度でもこの記事を読み返して、日常に確実に落とし込んでいってください。

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毎日を笑えるものにするために

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アイザワワークスでした!

ありがとうございました。

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