悟りと覚醒についてちょっと語ってみる

私はスピリチュアルアドバイザーでもあります。(最近はビジネス向けにシフトしておりますが)

さてさて。

スピリチュアル系のお仕事をさせていただくと、結構な確率で来るのが「悟りたいです」「覚醒を経験してみたいです」みたいなものなのですが。

直にお話する機会がある方であれば、その人に合わせた内容でアドバイスを差し上げるのですが、誰にでも当てはまる話でいくとすると、という観点でこちらでも「悟りと覚醒」について少々語ってみようかと思います。

先にお話しておくと、スピリチュアル系が好きな方にとっては全くおもしろくない記事になると思います笑

ですが、スピリチュアル歴30年以上の自分の話ですので結構ホンモノだと思います。

ここ2,3年でハマってますとか10年やってますとかのレベルではないので、そういう意味で本気の話を読みたいと思われる場合はぜひぜひこの先へ!!!笑

アイザワワークスが語る、悟りと覚醒についてのお話です。
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悟りや覚醒を求めるケース

現代社会においては、基本的に、何の悩みもない人は「悟り」や「覚醒」と言ったものには興味を抱きませんよね。

毎日が幸せで、何一つ不自由なく暮らせていて、人間関係にもお金にも不満はない。

そんな感じの人は悟りとか覚醒みたいなものに意識はいかないんですよねえ。

いや、全員がそうだというわけではないですよ。

しかし、悟りや覚醒という言葉に意識がいく人のほとんどは、現実や生活、生きることなどに疑問を抱くような方ですし、悩みが多いとか繊細な精神をお持ちであるとか、そういったことが多いという話です。

そして、当然私もそうでした。

さて。

おそらく、この記事を読まれている方の多くは「この記事を書いている人は悟っているのだろうか?覚醒を経験したことがあるのだろうか?」という疑問を抱かれると思います。

その答えですが。

自覚としてはNOです。

NOというよりは、そこ自体に関心がない、というのが正確かもしれません。

しかし、人様からはよく「悟っている、覚醒を経験している」と言われます。

この辺りを詳しくお話していきます。

悟りと覚醒の意味

仏教を基にした考え方でいけば、悟りとは

「 迷いを拭い去って永遠の真理を会得すること」

といった説明になります。

また、覚醒するとは、そのまま「目覚めること」ですね。

この解釈でいくとすれば、確かに自分は悟りや覚醒を得たといえるかもしれません。

迷うことはないですし、これが真理であるといえるものを確立しています。

この世のすべてが夢である、幻想であるという意識で常時「自分」と「自分の思考」を切り離して生きていますしね。

自分は「自分」ではない、という感覚とでも申し上げればいいでしょうか。

「私」という一人称を使いながらも、私ではない大いなる何かが本体であり、私は私役をやっている刹那的な存在でしかないというか、そういう感覚に近いですかね、要はココにいるけどいません、みたいな感じで生きておりまして。

私そのものへのこだわりが極度に低く、次の瞬間に死ぬと言われても別段なんの感情もわかないというか、こう書くときっといろんな誤解を生むのですが、一瞬が一生であり、しかし全部がありもしないもの、みたいな感じですかね。

ここやこの瞬間に全てがあり、全てがない、を実感する感覚が普段というか、通常。

その意味において自我や欲や喜怒哀楽は「とってつけたようなもの」としてはありますが、何もかも5分後に奪われたとしても別段何も思わないでしょう。

一切へのこだわりや執念みたいなものがない、と言いますか。

しかし、いつもありがたいですし、楽しいですし、おもしろいと思っています。

感情はあるが、感情はない、感覚はあるが、自分のものではない、みたいな感じですね。

常に「ある」と「ない」が同時にあるような感じです。

まぁ私がどうこうはどうでもいいのですが。

それで言えば覚醒を経験しているでしょうし、悟ってもいるでしょう。

しかし、皆さんの中になんとなくイメージするものがあるのではないでしょうか?

悟りや覚醒した人はもっと浮世離れしてるはずだとか。

見た目や雰囲気だとか、やってることが普通じゃないはずだ、みたいなイメージがありませんか?

そして、悟っている覚醒しているような人間がこんなフツーのブログなんか書くだろうか?みたいな笑

もっとモロスピリチュアルなブログをやるのではないか、もっと高次元的な話ばかりするのではないか、と。

実は悟りや覚醒と言われるものは、ここに罠があるとも言えます。

「きっと、普通じゃない、人間離れした状態になることだ」

みたいなイメージや意味付け、こういったものです。

悟りや覚醒を得るにはいろんなパターンがある

一応、なぜ私が悟りや覚醒に近いような感覚に至ったのかと言うと、以前の記事でも書いている通り、激痛を伴う病気をかなり長い間患っていたことで自身が死に直面するような機会が人様より多く、生と死であるとか感情とは何かとか自我とは何かみたいなものを山奥に住む仙人のように特殊な環境の中で長期間にわたって突き詰めた経験があるからなのですが。

私自身がどうこうというのはひとまずおいといて(というか、現在私は悟りと覚醒に興味がありません)

30年以上スピリチュアルと向き合い続けている中で、結構多くの覚醒した人、悟りを得ている人に出会いました。

しかし、私の経験だけで言えば、その姿は実に千差万別です。

実際に得た悟りや覚醒体験を人に伝えるお仕事をされていらっしゃる方もいらっしゃいますし、まるでそこには価値を感じておらず、その感覚のままただただ生活をされていらっしゃる方も。

いわゆる仙人のような雰囲気の、お金は決して多くは持っていない高齢の男性がいるかと思えば、派手でゴージャスな雰囲気をまとった会社経営をされている女性もいる。

主婦の方もいらっしゃいますし、サラリーマンをされている男性も知っています。

私が見た一番若いケースで言えば、当時まだ高校生、18歳の男の子がいました。

要は、悟りや覚醒と「生活スタイル」であるとか「豊かさ」「経済状態」に関連性はない、ということです。

悟りや覚醒で現実が変わることはない

きっと多くの方が、悟りや覚醒に関して「現世的な意味で突き抜けた何か」をイメージされていると思いますし、それはそれで間違いではないです。

しかし、「現世的な意味」自体を超えていくのが悟りや覚醒だったりもします。

悟りや覚醒を体験していない人は「現世的な意味」でしか解釈しないので、なんだか壮大なものだったり、圧倒されるようなものをソレだと思っているフシが多々ある。

壮大、とか圧倒される、とかもまた「現世的な意味」なので、それもまた違うというわけです。

悟りや覚醒を得た彼らは、なんらかの肉体の感覚を超えた境地みたいなものを経験しているとか、知っているというものに留まり、だからといって何かがスゴくなるとか(笑)何かがよくなるみたいなことはない、みたいな感じです。

悟りや覚醒にあこがれや興味を抱くケースの多くが「何かがよくなること」をイメージしているのですが、実際の悟りや覚醒は「何かがいい、悪い」といった社会的、3次元的な感覚や価値観そのものを超えることだったりもしますので、場合によっては傍からみると「社会的に悪い状態」に見えることも多々あると思います。

傍から見てどうこう、というのはあくまで「傍の感覚」であり、本人はよくも悪くも思っていないか、もしくは「一時的にココにいる私役の何かは社会的に好ましくない状態にあるようだ」みたいな他人事のようにとらえている感じはあるかもしれません。

そんなわけで、悟ろうが覚醒しようが、それまでの日常が一変することはないですし、日常を肉体を持ち社会生活をする上で一変させることのために悟りたい覚醒したいというのであれば、それは少々違うかもな、というのが現時点での私見です。

もっと言ってしまえば、この先も肉体が朽ちて終わるまで「現実」というタイトルのムービーは続くのだな、と淡々と粛々と受け入れることがソレに近いかもしれません。

もちろん、この感覚を宗教やスピリチュアルな方面に生かそう、というケースはそこそこあるとは思いますが、いいも悪いもない、嬉しいも悲しいもあるけどない、みたいなものは突き詰めると欲と乖離していくので、意外とそういった情熱から遠ざかることも多いのではないかとも思います。

それよりは、今ある場所で与えられた立場や役目をただ全うするのみ、みたいな、むしろ現実と言われるものと真正面から向き合おうとする姿勢が強くなるのではないかと。

この意味で話せば、悟りや覚醒は特に現実を変えるツールとはならない、という考え方でおります。

むしろ、現実と向き合うためのツールと言った方がしっくりくるかもしれません。

ソレを知ってもラクにはなれない

そんなわけで、悟りや覚醒を得た後にくるものは「楽も苦もない現実」への向き合いだったりもしますので、ラクになるかと言えばそれはちょっと違うかな、と思います。

私の知人で覚醒している男性は確かに、誰が見ても何者なんだ???と驚くような不思議な雰囲気と目をしている人です。

彼は修業に近いやり方で覚醒した人で、その過程で得たヒーリングの能力を発揮され、ヒーラーとしてもお仕事をされていらっしゃいます。

しかし、その生活は社会的な意味で言えば決してラクそうではないですし、豊かでもないです、というか社会的な基準で言えばむしろ苦しそうな部類だと思います笑

ですが、その「ラクそうではない」「豊かではない」というのはあくまで社会的な感覚でいうもの。

本人は「ラクとか豊かなどの言葉がない場所」で生きているので、どうであろうと構わないといいますか。

苦楽を見下ろす場所をさらに見下ろすがデフォルトになる、というのが悟りや覚醒などの視界だろうと思います。

悟る方法、覚醒する方法

一応最後に、悟る方法、覚醒する方法について書いておきます。

何度も言うようでアレですが、別に今の日常がガラっと変わるわけではない、というのをご承知の上で読んでいただければ笑

ちなみにこれから書くことは私がそうした、という話ではないです。

ショートカットすればこういうことだな、というだけで自分は実際は20年近くかけて試行錯誤を繰り返し、かなり遠回りした後に会得しました。

では、ショートカットでの悟り覚醒方法をお話します。

コレに意味はない、とすべてにおいて思う

複雑に考えず、まずはコレだけで。

すべてにおいて思う、のところが重要です。

見るもの、聞くもの、感じるもの、感情、その全部に対して「意味はない」とラベルを貼っていくような感じです。

例えばコレを読んで「コレじゃない!」と思ったり嫌悪感や抵抗感を感じたとしたら、それにすら「この嫌悪感や抵抗感に意味はない」と思う感じです。

意味の意味に「意味はない」と判断していくような。

結局のところ、悟りや覚醒の境地みたいなものは、あらゆる判断や感覚を超えたところになっていくわけですが、判断や感覚とは常に「人の持つ独特の基準値」がもとになっています。

その人の基準値を自分から手放していくようなイメージですね。

だからといって、日常生活をやめろとか、人と話すなとかそういう修行的なものは一切ありません。

今まで通りの生活を続けながら、心の中で「これに意味はない」と思い続けるような感じですよ。

これを読まれて「それじゃ虚しくなるじゃないか」とか「なんだかソレってつまらない」と思われたとしたら、それもまた「意味はない」のです。

虚しさも、悲しさも、つまらなさも、なくせというわけではなく、感じていいしそのままでいいので、ただ「そこに意味はない」と思うだけでいいです。

感情や持ち物、人間関係など、一切、何かを捨てる必要はないです。

ひたすらすべてに「意味はない」と繰り返していく。

非常に単純で誰にでもできますが、この意味のなさをよくも悪くも捉えない状態が普通になってくれば、きっと、悟りや覚醒に近い状態になれるのではないかな、と思います。

実際はこれより複雑で細かい部分もあるのですが、記事として書くならこの辺りですかね!

ぜひ、試してみてください。

アイザワワークスメニュー

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