先日、私が会長補佐を務める学術支援団体三思会の会合で、仲間からおもしろい質問を受けた。
「君はどういう感じで思考すんの?どういう考え方してるのか気になるんだよね」
この手のご質問をあまりいただいたことがなく、私には非常に刺激的だった。
おかげでこの記事を書こうという思いにもなったので、少々自分が普段考えていることや、自分の思考について語ってみたいと思う。
このサイトの主が普段考えていることなんか全然全く興味ない、と思われる方も多いかと思うが、例えば私は「収入ゼロから月収100万円とか1000万円にする方法」を知っているし、億単位の年収を誇る成功者たちが使っている集客方法を教えているし、それとは逆に、除霊の方法や霊格の上げ方なんかの指導をしていたり、アセンテッドマスターと会話するためのチャネリング方法を指導することもあれば、円満に離縁する交渉術なんかを話していたりもする。
要は、あらゆる環境の人に対応した解決策を提示できるわけだが、それがなぜできるのか、という理由の部分が話がこの記事である。
私が普段、考えていること
こういったことは、自分の中の優先順位を暴くことでその輪郭が浮かび上がってくるものである。
ちなみに若い頃、自分の優先順位は、とにかく「表現すること」が1番にきていた。
表現の方法は様々だ。
今はさっぱり描かなくなったが、以前は絵も描いていたのでそれも入る。
幼い頃はピアノなどの楽器もそのひとつだったし、文章を書くことも当然含まれるが。
脳内にあるものをいかにして3次元空間に転写するかについて考えるというのが優先順位の1位だったし、それはつまり「表現について」である。
今でも表現することに関する優先順位は高いのだが、それは1位ではなくなった。
興味の中心は、その表現するべき脳内にある何かとその起源や形の方にシフトしている。
例えば、自分は昔から幾何学や幾何学模様、フラクタル構造に異様に惹かれる。
若い時分は脳内の幾何学模様やフラクタル図形を書きだすことに執心していたわけだが、最近はそれらが一体何なのか、なぜそれらが存在するのかなどの方に興味や探求心が移っているという雰囲気である。
今、普段一番考えていること
というわけで、一番考えていることは何か、と言われるとコレだ。
思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味
本当にこんなものが普段考えていることの優先順位の1位なのかと思われるかもしれないが、本当に1位なのだ。
日常生活や人生と何の関係もないじゃないかと思われるかもしれないが、ものすごく関係がある。
もっと言ってしまうとお金やビジネス、豊かさなんかともものすごく関係がある。
だから優先順位の1位なのだ。
本当にウソ偽りなく、普段考えていることはコレばかりだし、ビジネスに関してもお金に関しても人間関係や社会貢献に関してもこの派生で考えている。
霊的なことやスピリチュアル方面のことも考えているしやっているが、それも個人的な現世利益を求めてというよりはこの1番にくる思考からの派生でやっていることだ。
スピリチュアルが好き、とかスピリチュアルな生き方をしています、みたいな感じでは一切ないし、そこでワクワクするとかありのままに生きるみたいなものにもさして興味はない。
思考を生み出す理論や意識現象の起源を探っていくための一要素として向き合ってきたのがスピリチュアルであり、それ以上でもそれ以下でもない。
潜在意識に関しても結局はコレだ。
潜在意識で自分の人生や日常をよくしたいというのはあまりなくて、それよりは潜在意識というものの言葉やその存在はどこから来て何をどうすればどうなるのか、その起源や理論的証明はどうなのかの部分が興味の対象だ。
マンガやアニメが好きでよく見るが、それも全部この派生で読んだり見たりしている。
ナルトも黒子のバスケも銀魂もテニスの王子様も全部この観点で読んでいる。
逆を言えば、この「 思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味 」に無関係であるものには正直全く興味がないし、それに少しでも関連性を感じるものであればめちゃくちゃ考えるしハマる。
お笑いやおもしろいものが好きなのもこの派生だ。
人はなぜ笑うのか、笑いとは何か、何の意味があるのか、笑うという現象は何なのか、そしてその現象が世界や宇宙や人類にどうつながるのか、みたいなことを考えるのである。
私にとっての個人的な損得勘定や喜怒哀楽などの感情は全てココに触れるかどうかで決まる。
その意味で、どう生きるかとか、どう稼ぐかとか、どう若く健康で美しくあるかみたいな個人的な生活や生き方に関連するものはこの最上位要素に関係すれば執着するし、しなければどうでもいい。
私は「社会的な意味での私」の優先順位がおそらく一般平均より著しく低く「 思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味 を理論的に追求する人間的存在としての私」の優先順位の方が高いのだ。
しかし、案外ここ5年の中で驚くような情報や知識との出会いがあり、思考を生み出す理論や意識現象と「ビジネス」や「お金」はかなり密接な関係があることが証明された。
それで、結果としてビジネスやお金の勉強や研究もしていて、マーケティングを教えるとか、起業支援などの仕事もやらせていただいているのだ。
思考を生み出す理論や意識現象を把握すれば、マーケティングやセールス、コンテンツ、商品、サービスの創造などはいとも簡単にできてしまう。
それどころか。
言うなれば、この思考を生み出す理論と意識現象の追求とは、我々の人生や日常の全ての根っこにあるもの、元になっているものなので、ココを暴けばお金、恋愛、結婚、健康、趣味、仕事、ライフワーク、人間関係、その他もろもろ、あらゆることに応用が利くのである。
私がスピリチュアルだけを語らないのはこのためだ。
スピリチュアルも所詮、人の思考あっての存在に過ぎない。
思考の存在なしに、どうやってスピリチュアルを感じるというのだ。
自己啓発的観点や心理学的観点で問題解決をしないのもこのためだ。
自己啓発だろうが心理学だろうが、所詮すべては思考あっての話であり、ヒトの思考のなんたるかがわからなければそもそも大して意味はない。
というわけで。
普段考えていることはコレだ、という話を先にしたので、ここからはなぜこんな思考になったのか、なぜこんな人間になったのかというルーツ的な話をする。
ルーツに関してはダラダラと長い説明になるので、結論だけここまでで先に書いてしまった。
思考を生み出すものとは何か?
プロフィールなどにも書いているが、私は生まれつきの重度の難病を長い間患っていた。
おかげでどう考えても死んだ方がラクだろう、という肉体的な苦痛や痛みを人よりも多く経験していて、そのために比較的若い頃から「自分とは何か?」という命題に向き合うハメになることが多かった。
あまりにも苦痛だったり痛かったりして死ねもしない状況だと、やることはもう「考える」しかない。
それがどこに行くのかと言えば、その苦痛や痛みを感じ訴える「自分」とは何者なのだ、何でできていて何を意図するものなのか?みたいなところに行きつく。
小学生くらいにはすでにこの感じで、思春期は痛みでベッドから動けない時期も長く、いわゆる一般的な「女性として」とか「人として」みたいな当然持ちそうな夢の数々を早々に絶たれたこともあって、私個人がどうこうというのはその頃には手放していた。
私とは人間であり、人類であり、魂のようなものがあり、意識を持つ存在であり、肉体を伴うものであり、言葉を用いて思考する者である、みたいな感じで、社会的な所属やステイタス、楽しみや快楽、達成感みたいなものへの興味ははなから持っていないというか、持てるような状況ではとてもなかったし、他人と比較できるほど私に類似する状況にある者もいなかったのでそこで苦悩することもなかった。
比較とは、類似しているからこそ生まれる思考なのだ。
例えば、あっちの方がかわいいとか、あっちの方が成績がいいとか。
あの人の方がお金があるとか、あの人には素敵な恋人がいるとか。
こっちは呼吸することすら満足に許されない病状。
毎日明日の命も知れないギリギリで生命維持してる状態なのに、普通に社会生活できている人たちと比較もなにもない。
要は、人として最低限あるべきものが生まれつきなかったので、やや必然的にこうなったというのが事実である。
だからと言って別に悲観的な感じでもなく厭世的なニュアンスもなく反骨精神でもなく、早々に「私は人間という存在であるらしい」というのが私が私を説明するにあたり、最初に出てくるものになっていただけの話だ。
それが今日まで割と延々と続いているし、人間とその意識について考えることというのがずっとテーマである。
補足的な部分で言えば、善悪の価値観や喜怒哀楽も割と早い段階で自分と切り離して考えていた。
というのも、あまりに病気による苦痛や痛みが強すぎてそれらの感覚を超えていたからである。
肉体的な痛みは度を超えると感情を強引に飛ばすのだ。
当時は苦痛過ぎて痛すぎて、悲しくもムカつきもできない、という境地だったのである。
感情からではなく痛みによる生理現象で1日中涙が出ているとかが日常茶飯事だったのだ笑
感情はなんやかんやでエネルギーを使うのだ。
肉体の方でエネルギーを使われると感情に使うエネルギーなんか残らないというのが実体験から得た教訓である。
ここで学んだのは、マイナス感情で悩んでいるとか、負の感情がどうとかというのは、そこに割けるだけのエネルギーが余っているということであって、感情を持てるだけまだ極限状態ではないよ、というものだ。
人は本当にヤバくなったら感情を感じられる余力すらなくなるのだ。
・・・というわけで、過去自分が経験し考えていたことはカンタンに言うとこんな感じ、というだけで、実際はもうちょっと複雑で面倒くさい感じだ。
人間の存在理由について、人類や全ての生命、宇宙に共通する圧倒的かつ唯一無二の答えが存在するはずだ、と以前は思っていて、そこへの探求が全てだったし、図々しくもその答えを見つけることこそが自分の使命だと思い込んでいたフシもあった。
今はもうとっくにそんな場所にはいないのだが、そういうところがルーツと言えばルーツなのだ、という話である。
そこに早い段階で加わってきた思考の要素が「スピリチュアル」である。
人とスピリチュアル
こんな感じなので、子供の頃から「論理的におかしいものは許せない」みたいな考え方を強く持っていた。
おかげで母とはケンカが絶えない幼少期である。
「お母さんの言ってることは理論的に間違ってる」と言って親に訂正を迫る子供なんか正直かわいくない。
父親が割と優秀な理系ビジネスの専門職的な仕事だったこともあり、算数が苦手な割にはロジックで説明できないものは断固拒否みたいな部分もあったのだ。
しかし、病状が悪化する中で、割と臨死体験に近いことや、科学的に証明されていないオカルティックな現象などを数多く体験して、どうもこの世は科学で証明できていない側面がかなり多くあるようだ、というのも自分の中で常識化していった。
これの決定打になったのは、病気に関して今の医学では治せないと医者から宣告されたことと、医学で治せないと言われたのに「神道」の神事と呼ばれる手法で完治した体験だった。
世の中の大半の人は、生命の危機を医療に頼ると思うし、医療への信頼は絶大なものがあると思う。(私はそれを否定する立場ではない)
しかし、自分は当時最先端と言われた医療から匙を投げられたというか拒否された上に、科学的とは言われていないいわば社会的に怪しいとされる分野のやり方で今の健康な体になったのだ。
一般的な感覚と逆をいかされる経験をした。
人間は肉体という物理的なもののみで構成されているわけではない、という可能性が、確信に変わったのがそこである。
物理以外のものが確実にある、というところから、意識や魂みたいなものへの関心が「論理的に説明できる対象」に昇格したわけである。
人と社会
自分の健康問題が解決されると同時に、長年頭を悩ませていた親との確執にも終止符が打たれた。
他の記事でも書いているが、母はいわゆる「毒親」であり、今の法律だと虐待とされるとか違法になるようなしつけを散々受けて育っていた。
おかげで社会的な感覚が全く育たないまま成人してしまい、いざ社会が見えてくるとその感覚のズレにものすごい苦労を強いられた。
親から教えられた常識や感覚がズレ過ぎていて、社会一般が言う普通が全く理解できないのだ。
しばらくは社会で生きることや他人との関係性に深く悩まされることになった。
しかし、ここもまた例の 「 思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味 」の追求と観察、研究である程度自力で乗り越えることができ、どこに行っても比較的円満かつ、生産的な言動ができるようになったのだが。
やはり社会というのは人間として生きる以上、切り離しては考えられないものだという考えも強まって、人と社会、そして人と社会という現象に対して延々と向き合う日々である。
社会とはヒトの集団であり、人とは意識存在であり、意識は思考により形成される。
全ては結局ここにたどり着くのだ。
人と「生きる意味」
さて、自分自身が長年抱えていた問題が解決されてくると、今度は人様の悩みや問題をお聞きする機会が増え始めた。
皆、様々な悩みを抱えて日々を生きている。
大変だ、苦しい、不安だ、怖い。
いろんなお話を伺うわけだが、それらの根っこはなんなのか。
これもまた 「 思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味 」 が把握できればある程度解決されていくものである。
もちろん、解決の筋道がわかることと、本人がそれを選択するかどうかは別だ。
解決策は必ず提示できるが、それを選択されず、それまでの不安な日々を引き続き続けられる方も多い。
なぜ苦しいのにそちらを選択するのか。
そこもまた 「 思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味 」 で分析、解説することは可能なので、その辺りを普段からブログ記事などで発信しているのだが、それでも多くの方がなかなかご自身と向き合い新しい選択をされるということができないままでいる。
少々お会いしてアドバイスしたところで選択をされないことも多いため、中長期的に助言をし続けるということができるようにコミュニティやコンサルグループを設けた次第である。
人は短期的な痛みを避けて、長期的な痛みを受け入れてしまう傾向があるのだ。
この辺りを考えると、徐々に「人の生きる意味は何か」というところに導かれていく。
何度かブログには書いたことがあるが、この答えは「意味はない」というものである。
しかし、以前の私は絶対に人類共通の答えがあると思っていたし、今でも別の意味で「ある」と捉えて探求し続けている。
現時点での人の生きる意味に対する答えは「意味のなさの意味を言語化すること」なのだが、日常の雑事や現世利益に振り回されている状態だとなかなかこのニュアンスは伝わらない。
いずれ、この話もできればと思う。
人と世界平和
というわけで、生きているうちにどこまでやれるかわからないが、本気で世界平和の実現に向けて思考し、行動しようとしているというのも普段本気で考えていることのひとつだ。
世界はいまだ完全な平和を実現できておらず、世界中に飢餓や貧困にあえぐ人たちがいる。
差別に苦しむ人がいる、怒りが収まらない人がいる。
しかし、全ては人のやることだ。
人は意識を持つ存在であり、意識のゆらぎを同じ方向に向かわせることが可能であれば、それは実現できるはずなのだが、ここは愛だの思いやりだのという言葉でどうにかできるような単純な話ではないのだ。
人の思う愛は皆違うからである。
どうすれば、人類全てが、地球の裏側に住む誰かを家族のように愛せるか。
これはこれで普段本気で考えていることの中心にあるひとつだ。
人と思考、そして意識現象
以前は、人の思考と意識現象について、経験を踏まえた上での独自の理論と心理学や脳科学的な要素、潜在意識に関する情報と霊的分野やスピリチュアル方面の知識を総合してその全体像や構造を捉えていた。
が、今は全く違って、思考も意識現象も結局は言語や言葉、そして肉体に備わる感覚、それらの集合体が織りなす構造が作り上げるものという観点から、その基礎を現代哲学に置いている。
現代哲学、論理学、現象学、分析哲学、言語分析、思想史。
一見その関連性はわかりにくいとは思うが、ビジネスもスピリチュアルも潜在意識も霊的分野も全て、これらの下にくる概念なのだ。
結果、今自分が思考の中心としているのはこの辺りの知識や情報になる。
学んでわかったことだが、人の意識もあらかたこの辺りを探ることでなんたるかが見えてくるのだ。
そして、意外な副産物として挙げられるのは「神の存在証明」だった。
スピリチュアル的な神ではなく、そして宗教的な意味での神でもなく、ただ漠然と、我々人間や世界の基礎や枠自体を形成している何かに、人知の及ばない何かという意味での神がいる、というところはほぼ確実だ、というところに今はいる。
アカデミズムを突き詰めると、逆にここにたどり着かざるを得ないというのは、なんでも理論で片付けようとしていた自分にはある種の皮肉であり、自力でどうにもできないという意味ではある種の絶望でもあり、そしてある種の答えでもある。
そうなると、普段考えていることの最も大部分は「神に関すること」に集約されてくる。
思考も意識も現象も、人知を超えた存在が何らかの意味で関与していると言わざるを得ないことが多々生じるからだ。
かといって、ここで言う「神」とは人間のご都合主義で作られた願いを叶えてくれるジーニーみたいなものではなく、ブッダやキリストのような民を救うようなものでもないので、むしろ人間の日常生活からすれば無用の長物に近い。
いわゆる、人間に何かしてくれる的なものでは一切ないからだ。
しかし、我々の生きる意味や、脈々と継がれる歴史のそばに、影のように常に在る存在であることは確かであり、それなしに我々はどうもあり得ないのだ。
私は私の意識、もしくは背中に、常に張り付くように在る「神」に挑んでいるし「神」を暴こうとしている。
「神」に立ち向かうために、延々と「思考を生み出す理論の要素やその背景、または意識現象の起源とその意味」について考えているし、おそらく生涯、神への挑戦だけがテーマになるのだと思う。
最後に、私の立ち位置と思考の中心を大きく変えた哲学者の本をご紹介する。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン。
私の概念上の父である。
この哲学者の存在が、私のそれまでの思考を全て覆したし、予期せぬ希望を与えてくれた。
彼に出会い、私は今の自分として再度この世界に生まれたように思っている。
クライアント様たちには何を話しているのか?
以上、私が普段本気で考えていることについてでした。
この記事は珍しく本当の意味での個人的な話なので、実際に私がコンサル生さんやクライアントさんたちにお話していることはもっと実存的であり、いかにして利益を出すか、いかにして現世利益を得るか、いかにして幸せになるかの部分に集中しています。
ご興味があればぜひ、セミナーやコミュニティの方にいらしてください。
詳細は以下で。
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